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大津いじめ事件への所感:建前よりも実質を。

大津の事件の報道を見る度に胸糞が悪くなる。
変な時間に起きてしまったので、少し言いたい事を書いてみようと思う。

僕が中学生の頃、大津の事件とは比較するのも憚られるほど軽度なものだけど、言葉によるいじめを受けていた。某友人氏ならきっと「女子中学生に罵られるなんて幸せじゃないか」と言うに違いないが、当時の僕にとっては死にたいほど辛かったし、その影響で今でも「死にたい」という口癖が残ってしまってるほどだ。(まあ、今は専ら少し恥ずかしいことを思い出して口走るぐらいで、本当に死にたいわけじゃないが。)

当時の僕が絶望しなかったのは、担任の先生が親身に対応してくれたからである。
先生に相談すれば、話を聞いてくれたし、学級会議を開いてくれた。まあ、そういう対応では根本的な解決にはならないことが多いのだが、学校に味方が居るという安心感があった。何かあればすぐに相談できたし、そのことがいじめのエスカレートを防いでいたのかも知れない。だから、今もこうして生きているのかもしれない、と思う。恩師にはとても感謝している。

一方で、大津の事件は、教師がまともに対応していなかったという情報がある。どこまで事実か、というのは把握しようもないが、それにしても不思議なほど、不誠実な対応が目立っている。何故そんなに不誠実な対応なのだろうか。「道徳教育実践事業推進校」として成果を上げているという『建前』のもとに、「いじめ」が存在してはいけないからではないか、という邪推もしてしまうほどだ。

もし、先生が相談に対してまともに取り合っていなかったのであれば、しかもそれが自分の勤務評定を下げないようにするためであれば、そんな酷い話はない。何の為の道徳教育推進だ。きちんと相談を受け付け、いじめに対応し、そしていじめられている生徒を安心させる。そういう地道なことが評価されるべきではないのだろうか。

原発の事にしてもそうだが、「事故は起きないと宣言したので、起きた事故はなかった事にする」という類の出来事は、本当にナンセンスである。そんなことなら、宣言しないほうがまだマシである。

残念ながら、いじめは起きるものだ。
事故を完全になくせないのと同じように、いじめを完全になくすことは出来ない。
いつどこで起こるか分からないし、一旦起きた時に、収束させることは非常に困難である。なぜならば、この世の中には『話の通じない人間』というものが一定確率で存在するからだ。話しあえば分かりあえる、というのは幻想である。

だからこそ、そういうときにどうすれば良いのか、というノウハウを培うことが非常に重要となる。
幸いというべきか不幸というべきか、いじめの発生確率は、原発事故の発生確率に比べれば非常に高い。程度の差こそあれ、少なくとも40人クラスに1人はいじめられている人がいると考えるべきであろう。したがって、ノウハウを培う機会は無尽蔵にあるのである。

確かに「うちのクラスにはいじめがない」というのは輝かしい実績かも知れない。しかし、それにはまるで意味がない。そこから得られるものは何一つとしてないし、そもそも、そういう実績は得てして眉唾物である。僕はこれでもプログラマーの端くれだが、「このプログラムは完璧だ。バグなど一つもない」と思ったプログラムに限って、エンターキー1つで異常終了するものなのである。どこかに見落としがあるから完璧に思えてしまうのである。

それよりも、「こういう事案が発生し、こういう対応をした。その結果どうなった」という情報を成功事例であれ失敗事例であれ蓄積して共有する事に意味があるのである。『完璧』な実績や成功か失敗かよりも、情報共有への積極性が評価されるべきであろう。

何よりも、いじめを受けた生徒を黙らせてはいけないのだ。いくら忙しくても、いくら些細な事に思えても、生徒からの相談には親身に対応する。それが基本である。相談がなくとも、アンテナを広げ、積極的に聞き取りを行うということも必要かもしれない。また、その際に、あえて「いじめ」という単語を使わないというのも一つの方法かもしれない。(考えて欲しい。世の中には「自分がいじめられている」という事実を肯定できない人間もいるのだ)
間違っても「君が我慢してくれたら、全てが丸く収まる」なんて事を言ってはいけない。

建前よりも実質を。
人事評定よりもきちんとした対応を。
実態に即せぬ宣言よりも、情報共有によるノウハウの蓄積を。

それが僕から教師や偉い人のみなさんにお願いしたい事である。
まあ、僕のような若輩者が言うまでもなく、誰もが分かっている事なのだろうけれど。